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「小野竹喬」展を見る
なぜ茜色の画家と称されるに至ったか 「小野竹喬」展を見る
生誕120年「小野竹喬」展が11日まで東京国立近代美術館で開かれた。本画119点、素描52点を一堂にそろえた、かつてない規模の回顧展だった。画風が今の時代にマッチしてきたのだ。
1889(明治22)年、現在の岡山県笠岡市に生まれた。生家はラムネ屋で跡を継ぐことを嫌い14歳で京都へ出た。竹内栖鳳に入門した。1909年開設の京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸大)を1期生として卒業する。同期の土田麦遷センとは生涯の親友となった。日本の四季の美しさを詩情豊かに表現したことでも共通している。
1916(大正5)年、4第10回文展に「島二作(早春・冬の丘)」を出品、特選となり、これが出世作となる。27歳だった。寄せた形の構図が縦の画紙に収まり、樹木が美しい。早春を表現した繊細な線と淡い色調は実に見事だ。
1921(大正10)年、32歳の10月に渡欧する。帰国は翌年5月だった。当時は誰もが海外へ行ってみることに憧れたが、それによって小野の画風が変質したとは思われない。それがその後の彼には幸いしたように思え、かえって良かったと思う。
ターニングポイントとなったのは1944(昭和18)年、54歳の時、長男春男が戦死したことだった。26歳の若さで絵描きとしてもこれからという時だった。自分と同じ画家の道を歩んでいただけに、竹喬にとっての人生で悲運と苦難は大きかったろう。
それを乗り越え、画境も新しい時代に入る。茜色の夕焼け雲を描くようになった。茜色の画家の誕生である。茜色は夕映えの照り映えであり、息子への思慕であったといわれている。
さらに1939(昭和14)年から大和絵風の表現になっていく。戦後は明快な色彩を用いた簡潔な表現に到達する。
平穏な日々の積み重ねであった歩みの人生に見えながら、その実大きな山谷がないはずがない。ときには精神的にはその作風をガラリ変えてしまうほどの力を持つにいたった。
「奥の細道句抄絵」は芭蕉が詠んだ句を絵画化するという試みだった。ご本人自身、若い時から句作をよくし著作もあるほど。
絵にした句は次の10句だった。いづれも京都国立近代美術館の所蔵である。紙本着色・額・大きさの標準は60×90㎝。彼の代表作と言ってよい。
「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」 「笠島はいづこさつきのぬかりみち」 「まゆはきを俤にして紅粉の花」 「五月雨をあつめて早し最上川」 「涼しさやほの三か月の羽黒山」 「暑き日を海にいれたり最上川」 「象潟や雨に西施がねぶの花」 「荒海や佐渡に横たふ天の河」 「あかあかと日は難面もあきの風」 「浪の間や小貝にまじる萩の塵」
芭蕉が詠んだ句に間違いはないが、これらの発句がすべて代表作とはいえないものも混じっている。当然のことで、基本は竹喬の心象風景の方が勝っているわけだからだろう。自分の好みの風景が描かれたといえそうである。
竹喬は画業60周年を迎えるころから(昭和49,50年)水墨画を指向し「墨彩画・スケッチ展」を開いている。東洋の美の極致を墨絵にもとめたのだった。だが、本人は納得のいく作品はできなかった。
その後も勉強を続け、日本独自のものを製作するには、日本人としての精神性をたかめることだとしながらも、「結局、人間というものは、生まれながらの素質なり体質をもっている」。
そして「宗達の墨絵のようなところへいってやろうと思ったって、それは宗達でなければできない」「小さいなりにでも正直に自分のものを出していれば、そうすれば、貧しいながらもそこに美というものが生まれてくる」と述べている。
茜色の画家としての諦観にも似た境地がいまにあらたなフアンを獲得しているのだ。
画風は何度か変わり目を見せたけれども、日本の自然の美しさを詩情豊かに表現したことだけは生涯かわることはなかった。
( 2010/04/15 )
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